グループ蜃気楼 年表


■平成5年(1993)1月16日

・小澤和子、天川久代、上野テツ、佐野チヅの主婦4人がグループ蜃気楼を結成。


■平成9年(1997)9月

・「会津音声辞典」発行。

     ※手書き、カセットテープ版。


■平成20年(2008)8月30日

・「会津方部 方言の手引書」(歴史春秋出版)発行。

     ※活字、CD版。


■平成29年(2017)11月9日

・Web-PC版「会津音声方言辞典」公開。


■平成30年(2018)9月5日

・Web-スマートフォン版「会津音声方言辞典」公開。




Web版「会津音声方言辞典」公開にむけて


ご挨拶

野口 信一

  元会津若松市立図書館館長

  会津歴史考房主宰


今、全国的に方言が消えつつあります。ここ会津でもアクセントはともかく、子どもたちは皆、標準語で話をしています。そのような中、危機感を覚えたのが会津若松市の主婦グループ「蜃気楼」の皆さんでした。


消えゆく会津方言を言葉に掘り起し、さらに話し言葉でカセットテープに入力するという困難で根気のいる作業を4年に渡って行ったのは1997年のことでした。会津の方言に関する本は今までも出版されていましたが、方言は耳で聞かなければ理解できません。


以来2008年には『会津方部 方言の手引書』(歴史春秋社刊)として刊行、さらに音声として34枚ものCD化を行いました。CDは会津図書館等に贈呈されましたが、その特性上、扱いが煩雑で残念ながらあまり利用されていませんでした。


これに光を当ててくれたのが内藤正人、幸枝ご夫妻でした。最新の技術を駆使してインターネット上にのせるという、願ってもない困難な作業を行っていただきました。これにより全世界から、会津方言にアクセスすることが可能となりました。その使い勝手もCDの比ではありません。これで蜃気楼の皆さんのご苦労も報われるものと信じ、更に多くの人に広く利用されることを願って止みません。





バトン継承を担って

内藤 正人、幸枝


2016年春、旅行で訪れた会津美里町の舟石書店で「会津方部 方言の手引書」に出会ったことが、私たちにとって全ての始まりでした。


「会津弁には、多くの大和言葉(やまとことば)が残っている」と、以前ラジオで聴いたことがある妻が興味を持ち購入。埼玉の自宅に戻って開くと、「本の内容を吹き込んだCD(34枚)をお求めの方は下記までご連絡下さい。天川久代」と電話番号の書かれた小さな紙が挟まれていました。


「聴いてみなければ分からない」の妻の声に押されて掛けたところ、電話口には天川氏本人が。数年来この件に関する問い合わせは途絶えていたと、びっくりされた御様子。


CDブックが到着して、お礼の電話を入れると、「手元に2セットあったので、お分けできました。1セットしか残っていなかったら、お分けできなかったのですよ」。心温まる対応に、今度はこちらがびっくり。


(そういうわけで、その電話番号に掛けてもCDブックはもう手に入れることができません。もうしわけありません)


それをきっかけに手紙、電話で連絡を取り合ううち、この音源をデータベースに登録して、インターネットで聴けるようにしたらどうか?の考えが頭に浮かぶようになりました。


明けて2017年、その件を天川氏に手紙で提案すると、アドバイザーとして、元会津図書館長で、会津歴史考房を主宰されている、野口信一氏を紹介いただくことができました。さらに野口氏が現会津図書館長の坂内香代子氏に話を通していただき、天川氏、野口氏、坂内氏と私共夫婦が会津図書館で初顔合わせ。その場で賛同を得ることができました。会津の方のバイタリティーに目まぐるしくも感化されながら今まで進めてまいりました。


私がプログラミング、妻の幸枝がデータ入力の役割分担。私は両親が米沢出身なので、会津弁には近しい感覚を持っていますが、生まれも育ちも東京の妻はかなり苦労したようです。


「グループ蜃気楼 年表」にあるとおり、1997年「カセットテープ版」、2008年「CD版」、2017年「Web版」と、ほぼ10年の区切りで新たなステージに移行しています。おそらく次は10年を待たず新しい展開が待ち受けている気がします。天川氏よりCDブックを受け継いだように、次の走者へバトンを渡すまで、今後はWeb管理者として頑張って行きたいと思います。





「会津方部 方言の手引書」(2008年8月30日刊、歴史春秋出版)の記述から


「会津方部 方言の手引書」

Web版「会津音声方言辞典」の原典となった「会津方部 方言の手引書」(2008年、歴史春秋社刊)と、34枚セットのCDブック。



ご挨拶

グループ蜃気楼代表 小澤 和子


会津弁が大好きで興味のあった四人が会食をした時の事でした。テレビ、新聞、情報の全てが標準語の氾濫する時代に、「会津弁はどうなるの?」と誰かが云った一言が“「方言の手引書」を作ろう”の合言葉に変るには、そう時間は掛りませんでした。


平成五年一月十六日第一回の会合を持ち、グループ名は夢見て蜃気楼に向って走ろうと云う意味を込め「蜃気楼」と定め、それから四年走り続けました。その間幾度か挫折のちらつく事もありましたが、各々が良識を持って決めた目標を見失う事なく、完全とまでいかずとも主婦四人の努力の結晶として、一応まとめる事で進めて来ました。


言葉を集め、例文を作り、その度凄まじい激論も致しました。どうにかまとめると次は語り部さん捜しや収録して下さる技術者を尋ねる事に苦労し、これを乗り越えて初めての吹き込みに至りました。練習が続き本番まで半年、それから印刷機、製本機を借り文字通り手作りの研究でした。


平成九年七月十二日NHKが世界に向けて私達の研究の過程を十分間短波に乗せて下さり、海外で活躍する日本人の方々の故郷を思い出す縁となれば望外の喜びです。テープを聞かれて会津人の律儀な言葉から人情の温みと日々の暮らしを汲み取って戴ければ幸いと存じます。



語り部さんに聞く

グループ蜃気楼 上野 テツ子


[五十嵐さんの言葉]

大東亜戦争に父が応召となり、「後のことは頼むぞ」の言葉に、家を守るために進学をあきらめ、辛い戦争の悲しさを体験しました。この戦争の非情さと戦争反対を後世に伝え、方言による語りを通して方言文化を広めていきたいと思っております。

[宮沢さんの言葉]

私の幼い頃母は、寝物語に、ある時は近所の子供たちの遊びの間に、昔ばなしを語ってくれました。母は本を読むのが好きで富山の薬屋や行商の人に酒や食事を馳走し、各地の民話を聞いておりました。母の話は必ず最後は人の道を説いておりました。私もその様に受け継ぎ、語ることによって母への供養になると思っております。


[下鳥さんの言葉]

私は子供の頃家庭の都合で川口市へ転校して、会津弁では辛い思いをしました。標準語が話せず、いじめに遭う毎日でした。これを乗り越える為に学習に集中して、堂々と会津弁を使うようになったら何も言われなくなりました。今では方言が見直され喜んでおります。


この度の方言研究に当っては、語り部さん達の体験からにじみ出た暖かいご協力をいただいて終ることが出来ました。心から深く感謝いたします。語り部さん達は、それぞれの分野でご活躍なされておられますが、いつか消え去るであろう方言を「言葉の文化」とし、大切に見守っていっていただきたいと願っております。



語り部の紹介

グループ蜃気楼 小澤 天川 上野 佐野


○下鳥ミヨシさんは大正十五年喜多方に生れ現在喜多方市豊川に在住、約二十二年間に亙り学校給食の仕事をして来られました。土の匂いのする語り部でいらっしゃいます。


○五十嵐和代さんは昭和六年旧河沼郡河東村に生れ、三十九年間の教職を経て現在会津若松市に居住、御自分の体験を通し、戦争の惨めさと辛さ、そして平和の尊さを熱っぽく語る個性派の語り部でございます。


○宮沢しのぶさんは昭和二年磐梯町で生れ現在猪苗代町に住まわれています。囲炉裏端で聞いた、母親のぬくもりを感じる、百余編の昔語りをレパートリーとしてお持ちでございます。


右の御三方に御縁があったのも村野井先生(福島の方言を語る会会長)の御陰と感謝して居ります。御三方にはテープ吹込みの際、練習から本番と半年に亙る御努力に対し深く御礼申し上げます。


会津風雅堂音響の武藤さんには素人の私達に親切な御指導を賜りありがとうございました。又テープの編集にも大変な御苦労を御掛け致しました。


あいの里の印刷機を御借りしての印刷、図書館の御協力を得ての製本等々、初めての経験を致しました。このように一つのものを生み出す事は、新しい友情や縁が生れる事です。数え切れない方々の御厚情に依り「方言の手引書」が出来上がった事を感謝し、一層の研鑚を積む所存で御座居ます。



跋文

村野井 幸雄(PN海老原由紀夫)

    ・福島県現代詩人会名誉会員

    ・会津詩人協会顧問

    ・会津地方方言次世代継承事業実行委員会委員長

    ・福島県方言と語りの会顧問

    ・元福島県方言を語る会会長


平成五年「蜃気楼」(小澤和子・天川久代・上野テツ子・佐野チズ)というグループが、会津弁を音声で残すという途方もない事を始めた。なぜなら今までに方言辞典は、『福島県方言辞典』児玉卯一郎著・昭和十年刊・四十九年復刻版、『会津方言辞典』滝川清、佐藤忠彦著・昭和五十八年刊、両者とも図書刊行会より発行されている。以降年月を経ても、これらを越えられるものはなく、さまざまな人が姿形を変え出版するも、二番煎じの感が否めなかった。その理由として、方言の価値はいくら活字にしても、音声によらなければ、その訛りのニュアンスは表現できないからだ。


それを四人の主婦グループが、時間をかけて作りあげてしまった。手作りの「手引書」にテープをつけようということになった。当時私は「福島方言を語る会」の会長をしていたのでお声がかかり、本物の会津弁を話せる人を推薦してほしいと要請された。さまざまな経緯を経て、喜多方市の下鳥ミヨシさん(大正十五年生まれ)・猪苗代町の宮澤しのぶさん(昭和二年生まれ)・会津若松市の故五十嵐和代さん(昭和六年生まれ)を選んだ。


手引書作成まで四年、音声を録音するまで三ケ月の時間がかかった。推薦はしたものの、どうなることやらと心配が先に立った。なにしろ毎日、喜多方や猪苗代から電車で若松駅に着くと、会員が車で迎えに来て会津風雅堂のミキサー室で音響の武藤さんよりご指導を受け根気強く作業を続けたのだ。「よくやった。たいしたもんだ」と口では言えるが、二十五本の録音テープを五十音順にまとめることは並大抵の苦労ではない。私は傍観するだけで、その成功と達成を見守るだけだった。


「言葉としての文化」「会津の方言」に光が当たり、平成九年九月に完成した『会津音声辞典』は会津若松市教育委員会「郷土研究部門」最優秀賞を受賞した。しかしその完成品は会津若松市教育委員会、会津図書館、蜃気楼、三人の語り部、坂井正喜先生(会津若松市文化財保護審議会会長)さんと私、少人数の手にしか渡らなかった。頭出しが出来ず、活用という点で行き詰った。それから試行錯誤を重ねて、今回の出版とCDによる再収録となった。その経緯と苦労は天川さんの言葉によるとしても、その努力と執念は今ここに実を結んだのである。


そもそも方言は戦前から昭和三十年頃までは、「言語の悪者」であった。言葉遣いが正しく出来ないし、訛りがあって汚いという存在だった。学校でも会津弁は使わず、共通語で話しましょう・・・と矯正指導に懸命になった。その熾烈を極めたのが、集団就職であった。中学校を卒業したての地方人が、都会の職場で肩身の狭い思いを味わい、言葉の壁の屈辱に苛まれた。


「先生なぜ俺たちに正しい言葉遣いを教えてくれなかったんだよ」と憾みの手紙や電話が、ひんぱんにかかってくるようになった。会津の教育界も「授業は標準語にしよう」という方針を立てて努力してきたつもりである。しかし所詮は教師も会津人の悲しさ、「一形アクセント」「崩壊アクセント」の問題はクリアできなかった。飴と雨・箸と橋・亀と甕・牡蠣と柿などアクセントの問題は、ついつい克服できずじまいだった。


そして半世紀が過ぎた現在、別の角度から方言が見直され「方言は文化なり」「土地の言葉は宝言」とまでいわれるようになった。方言はしゃんと頭をもたげ、自己主張をするようになった。方言について、ある新聞は「市民権を得て、社会の中に根付いている」とさえ述べた。いつも私が語り部たちに言っているが、「方言は母のふところに置き忘れたぬくもりである」とさえ思えてくる。たしかに死語になりかけた方言もある。しかし田舎に住む人がふるさとに帰ってきて、会津弁に接すると涙ぐむほどの懐かしさを感ずるという。


「ふるさとのなまりなつかし・・・」啄木の歌をだすまでもなく、故郷の山や川そして友達の訛りに癒される昨今である。学校では全国で通用する言葉遣いの指導、家庭ではじいちゃん、ばあちゃんを大事にする思いやりこそが求められよう。NHKで全国的な方言を取り上げ、じわじわと日本中に広がっている。こんな時の快挙であり、あらゆる所で活用されまた改良が加えられ更に立派な『音声方言辞典』が、人々の心に根付くように願って止まない。



あとがき

グループ蜃気楼 天川 久代


一つの目標に向かって歩き出した、文字形式を音声で残す、会津弁のイントネーションとその独特の温もりを後世に伝える役割も果たせる。テープに入れさえすれば事は済む、とばかり・・・だが大変だった。正直これが実感。歩き出して足掛五年。ともすれば四人の身辺を洗う生活事情に阻まれ小休止の繰返し。ともあれ、当初は先(ま)ず出来るだけ、自分の生まれ育った地域から消えかけている方言を拾い集めた。既刊の村誌、町誌、先駆者の方言集からも、自分達の記憶の残影を呼び戻し、身近な者との接触も、折にふれ蒐集、愈々それをどう表記するかの話し合い、字引形式にして用例を附記する。用例文は三人で分担(小澤さんは外地育ち)。一応の日限はあっても、この宿題は時間がかかる。主婦業の空時間での記述作業は、やむを得ぬ状態で一年余も・・・。喝を入れる感じで用例記載済み原稿の清書を小澤さんが買って出られ、仕上げを急ぎ清書を一任、文字も表記も統一された百枚余の基本(もと)原稿の完成、ここまでがやっと前段階。本来ならその時点で、原稿の総点検もなすべきところ、目も通さず、会津全域にも及ばぬまま多くの不備を残し見切発車。標準語が訛っただけと知り削除も叶わず、重複もあり、その他種々、多くの不備、不足を敢て目をつむって、テープ収録が主なる目標とばかり先を急いでしまう。


方言録音の段階では予想を超え、大掛りとなって三位一体四位一体、語り部と会津風雅堂と我々メンバー連絡調整を担う小澤さん、その心労は大変なもの、折角の会津弁保存版を出来るだけ永久保存可能なものに、そんな願望がふくれて音声収録もプロの人に、原稿吹きこみは、本当の会津弁の表現出来る人を・・・と、方言を語る会のキャップとの出合い、三人の語り部さんの推せん紹介も戴く事が出来ました。そして、昨年平成八年三月初顔合わせ、録音の場は、会津風雅堂の音響室の利用が可能となり、担当の武藤さんから音響に関する様々な情報提供アドバイス、私たち主婦だけの及ばぬところを指摘するなど、親身のご協力には、深謝するばかりでした。


語り部さん、御三方の全面協力の姿勢にも脱帽、短文での語り口は、彼女たちを悩ませ、幾度もの練習、リハーサル、本番までの目に見えぬ努力をされた事、言葉に尽くせぬものがあった事、長びく中で体調をくずして、無理を押しての状態も・・・曲りなりにも全部の収録が完了した時は、長いトンネルをやっと脱したという実感です。残る作業は、テープ吹きこみ通りの原稿の清書、製本に向けては、メンバー四人の作業となりますが、製本、プリントにかかる機械使用には図書館、あいの里の好意的な措置、有り難い事でございました。


最後に私たちでは、力の及ばなかったところ、御容赦頂き今後更に内容充実を目ざして、後続の足掛りとなれば幸いと存じます。



南山御蔵入りの方言を集めて

グループ蜃気楼 佐野 チヅ


ここ五十年程の、社会の変化には、目を見はるばかりです。家庭生活を一例としましても、すべてが電化され、また物流の発達は、地域格差をなくして仕舞いました。又テレビの普及によって、地方色は日を追って薄れてゆき、私の子供の頃の生活などは異次元の出来ごとのようにさえ感じられることがあります。そうした中で、ふっと、口をついて出る方言に、たまらない懐かしさと心の安らぎを覚えます。幼い私は、一日の大半を祖母と過ごして居ました。その頃のおばあさんたちの、柔らかく、暖かい只見言葉が、なつかしく想い出されます。ころんで怪我をした時など「オーヤレ、オーヤレ、なんぼう痛がべぇ、今薬つけてけんぞう、いい子だ、いい子だ、そこから、ずなーくなんだぞー」と言いながら、貝の殻に入った薬をつけて貰ったこと、燈籠の下で、茄子の馬を作ったお盆の宵、秋風の冷たくなった頃、暖かい掌で頬を包まれた時の安心感が、走馬燈のように思い出されます。


あれは、五年前だったでしょうか。グループで方言の大切さに話がはずみ、これを録音してみたい、ということになりました。お互いに、自分の郷里の方言を分担することになりましたが、これを書きながら、私なりに発見したことがありました。


それは、奥会津の狭い地域での方言は、川の流れにそって、形成されて来たのではないかと感じたことでした。伊南川の上流にある伊南村・南郷村のアクセントや語句が、大変よく似て居ることです。伊南川も、只見町辺で田子倉ダムから流れて来る在来の只見川と合流して、大只見川となりますが、この源流である旧只見村の方言とは大きな違いがあります。


又奥会津と会津居平地方で用いる言葉は、文字は同じでも、音と訓に読まれて居ることでした。例えば、南会津地方では「来う(こう)」と言い、若松方部では「来っせ(きっせ)」と言います。こうしたことも、もう少し深める時間が欲しかったという気も致します。幸なことに、伊南方面の方言は、この地の馬場移山子先生の御助言を頂き、又各方部の郷土史の先生や、語り部の方々の御協力によって、どうにかまとめることが出来ました。これは、私たちにとって、望外の喜びでありました。又録音では、会津風雅堂の武藤さんに、大変な御苦労をおかけしました。素人の悲しさに、録音が、こんなに大変なこととは、知る由もありませんでした。まだまだ、未熟な点の多い作品ですが、消えゆく方言の、小さな道標にして頂けましたならば、この上ない幸と存じます。



付記

委作者 グループ蜃気楼 天川 久代


製本を決意するに当たって、数々の思惑を重ねて半年余り経過。(蜃気楼の仲間の了解を得る等々)一応の賛同を得られ、私が全面的委託の形となって出版社とテープ二十五本という声の収録をCD化する業者の選択、決定までも紆余曲折しての最終決断、「急がずゆっくり進むべし」との博物館側のアドバイスが支えでした。


自分達の仕事を歴史の一頁に加えて貰える。業績に大きな不足があり過ぎる見切り発車で、出版社とCD業者に多大のご迷惑をおかけしてしまう結果となりました。


◆製本に関して

・二百ページとした事で余裕・余白上の見る人への配慮に欠けた点。

・手作りの本からの本体に、誤字・脱字・重複の見直しなく、標準語も多く混入していた。それを整理・割愛出来ぬまま侭、校正に留めた。方言の文字表記だけでは分かりにくい言葉遣いに、校正上の困難さを、前向きに取り組まれた担当者に心から感謝致します。


◆CD作成上に関して

・方言の音声化(会津弁の語りを伝える)蜃気楼の狙いそのものでした。しかし、カセットテープのCD化には、その数の多さが、その高い垣根を踏み越えるため逡巡する余り断念の思い頻り、でもまわりの支援、又CD業者の心ある取り組み、その上三十四枚もの枚数を一括収納出来るブック型ケース。時代の恩恵も加わって、私達の狙いも叶えることが出来ました。


担当の方に心から感謝致します。


収録上の問題点も数多く出てきました。

・音声が入っているのに本の記録がない。

・「は」と「ふ」の音が消えている。

・頭が消えていたり語尾が消えていたりする。

・かすかなノイズが入っている等々。


最終的に手引書とCDは一体のもの、余りずれないで利用者の手引きし易い形を、極力努力して頂けました事ですが及ばぬ仕儀となりました事も、数多く不備・不満の結果も平(ひら)に御容赦下さいますよう。


最後に歴史春秋社様、イメージクリエーション様、誠意精魂込められての作成業務本当に有難うございました。


平成二十年七月一日